III.北朝鮮軍強硬派・穏健派間の路線の差違

 北朝鮮と北朝鮮軍の歴史をひもとけば、強硬派、穏健派とはっきり分けると混乱するが、ヘゲモニー争奪のための派閥争いが絶え間なく存在した。金日成は、この派閥争いを自分に有利に利用し、反対派を粛清するのに成功した。8.15解放後、6.25戦争を前後して存在した派閥は、大きく4つが存在した。

 第1に、金日成を中心とし、パルチザン部隊において主として金日成と共に戦った者達で形成された派である。第2に、中国八路軍出身者を中心とする延安派である。第3に、沿海州出身の高麗人を中心とするソ連派である。第4に、李承Y、朴憲永を中心とする南労党派である。

 解放後と6.25戦争時、金日成派が主として軍の核心的地位を占めた。崔庸健民族保衛相、姜健軍総参謀長、金策前線司令官等、軍部の実権を掌握した。延安派とソ連派出身の将星達が多かったが、主として軍団長、師団長級の地位を占めた。南労党派は、軍事指揮権を掌握することよりも、軍隊内の文化教養事業を担当した。

 金日成派は、軍首脳部を掌握している有利な条件を利用して、一度に南労党派を除去するために、6.25戦争失敗の原因を朴憲永、李承[火華]を始めとする南労党派に負わせた。彼らを「米国の雇用間諜」と呼び、粛清した。

 1950年度の軍粛清事業の目標は、延安派であった。北朝鮮軍の軍団長、師団長級の指揮を多く占めていた中国八路軍出身の将星、高級将校達が金日成の独断主義的な1人体制と政策に反感を持つや、1956年に延安派に対する大々的な粛清の風を引き起こして、軍隊内にいた将星、高級将校を処刑し、政治犯収容所に閉じこめた。この時期、人民軍保衛局に勤務していた者の言葉によれば、逮捕現場で将軍達の肩章をはぎ取り、軍用トラックに乗せて保衛局監房に閉じこめ、尋問が終われば、尖ったハンマーでこめかみを殴って殺したという。

 1960年初めには、ソ連派を軍部から除去した。1960年代末に入り、再び粛清が始まったが、それは、同じ金日成派内で発生した。中国満州で武装闘争を進行した金日成系列と国内で反日運動を行った国内派(甲山派)間にヘゲモニー争奪戦が始まり、党・国家の2位、3位の序列にあった 朴クムチョル、金ドマン、李孝淳等、数十名が反党、宗派分子と呼ばれて、粛清された。これは、北朝鮮に金日成の唯一独裁体制確立のための序幕であった。

 1968年と1969年には、軍部の大々的粛清があった。粛清の対象は、金正日後継体制樹立に不満を持った勢力であった。金正日後継体制樹立のため、何よりも重要なのは、軍部を掌握することであるため、その障害となったのは、当時の民族保衛相金昌鳳大将、総政治局長であり、対南担当責任者により操縦された許鳳学大将、1軍団長 崔ミンチョル上将、7軍団長チョン・ビョンカプ上将、6軍団長金ヤンチュン、海軍司令官ユ・チャンゴン上将等を始めとし、パルチザン部隊の出身者として大部分が金日成とは異なる部隊にいた成員だった。この粛清の突撃隊は、当時、少し押されていた金日成と同じパルチザン部隊出身者であった。金日成の伝令兵(親衛兵)出身である呉振宇大将、李乙雪上将、全 文燮上将、李ドゥイク上将、崔インドク上将、チ・ギョンス上将達であった。

 この時期を見れば、金昌鳳、許鳳学を中心とする勢力は、強硬、改革派と見ることができ、呉振宇を中心とする派は、穏健、保守派だと言うことができる。金昌鳳派は、金正日の後継体制に不満を持っており、外国に依存した軍の現代化を主張し、韓国に対する武力赤化路線を堅持した。また、軍作戦指揮、軍行政に対する朝鮮労働党の度を過ぎた干渉と介入を我慢できないと考えた。1969年に行われた人民軍党第4期第4次全員会議の資料によれば、その当時、金昌鳳は、労働党中央委員会と人民軍総政治局と連結していた電話線を途絶させようとした。呉振宇派は、軍の現代化実現を外国に依存してはならず、自国の力で行わなければならないと主張し、軍に対する朝鮮労働党の領導を強化しなければならないとした。また、武力による赤化革命遂行には時期尚早だと主張していた。結局、金昌鳳、許鳳学勢力は、反党、反革命、宗派分子と烙印を押され、100%粛清された。

 以後、北朝鮮軍では、軍に対する労働党の領導を確固に実現するための対策として、軍団、師団、連隊に政治委員制を、大隊、中隊には、政治指導員制を打ち立て、師団、軍団、人民武力部に党委員会秘書処を置くようにした。人民武力部の行政局にあった幹部局をなくし、総政治局に幹部部を置くようにする等、各級部隊政治部の偏在を高め、その地位と役割を高める措置を取った。

 一方、1980年代にも派閥争いがあった。即ち、1980年代中葉に入り、北朝鮮軍は、再び派閥争いに巻き込まれた。派閥の形態は、主として軍事指揮官と政治一群間の対立と葛藤であった。前総参謀長呉克烈大将を中心とする人民軍総参謀部と人民武力部長兼総政治局長呉振宇大将と総政治局組織担当副局長李奉遠上将を中心とする人民軍総政治局との争いであった。1969年以後、軍隊内の政治機関、政治一群の地位と役割が高まるや、軍事指揮官達は、当然萎縮した。政治一群は、自分の職権を悪用し、各種非理と不正腐敗をしでかし、軍事指揮官達を見下し、少しの欠陥があっても、それを過剰に処罰、失職させた。これに対する軍事指揮官達の不満が1980年初めからさらに高まり、1980年終盤に入り、爆発し始めた。

 呉克烈中心の派は、軍の改革、開放を主張し、呉振宇、李奉遠中心の派は、これを不適当だと考えた。呉克烈派は、1986年、呉振宇が交通事故に遭い、職務に有利となったことを利用し、軍に対する大々的な改革を指導した。軍改革の核心は、人民軍総政治局を始めとする政治機関の縮小を行った。これを隠蔽するために、先ず総参謀部の局、部署に対する統廃合を断行した。1〜2個局を統合し、総局型式の機構を作り、軍事、行政指揮官の地位を浮上させた。検数局と兵器局を統合して、修理生産総局に、外貨稼ぎを専担する25総局を作る等、果敢な措置を取り、総局長は、人民武力部副部長又は副総参謀長を兼任させた。軍事行政機構改編を先行した後、政治機関、保衛機関の縮小と減員を実施した。総参謀部政治部、保衛部の人員を大幅に削減して、級数を下方調整し、武力部庁舎外に移転させた。同時に、軍団、師団政治部の人員を減員する措置を取った。

 この外にも、軍の現代化のため、ソ連から軍事援助と協力を受けるための事業を大きく推進した。呉克烈は、北朝鮮にソ連軍衛星通信結束所と「ラモナ」空軍偵察基地設置とソ連軍偵察機の北朝鮮領空通過と不時(非常)着陸を承認する代わりに、北朝鮮側が要求する現代的な武装装備を売ることとコンピュータ、電子戦専門家を養成する「 美林大学」設立、北朝鮮軍将校のソ連軍事教育機関での養成等を協力するように提議した。ソ連国防省は、軍事的に北朝鮮を完全に自国の手の内に入れようとする利害関係から、この提議を受け入れ、北朝鮮が要求する最先端の武器、戦闘技術機材の販売を許容した。これと共に、北朝鮮地域に派遣された者達の軍事人員管理名目で軍事顧問団を派遣した。

 初代顧問団団長には、前白ロシア軍管区副司令官であったウェリドザノフ中将がなり、1986年から1990年まで事業を行った。その後任者には、ソ連国防省で勤務していたチュマコフ中将がなった。この外に、北朝鮮軍海軍とソ連軍太平洋艦隊間で、2回に渡り、共同海上軍事訓練をウラジオストクと羅津近海で進行する等、実質的な軍事協力体系が構築されていた。呉克烈派のこのような行動に不満を抱いていた李奉遠派は、呉振宇が病床から回復したのを契機に利用し、呉克烈派に対する総反攻を展開した。彼らは、呉克烈派のこのような行動を反党的、反国家的な行為と烙印を押し、「呉克烈の罪行」資料をまとめた。その内容を見れば、次の通りである。

 第1に、呉克烈派が軍に対する労働党の領導を弱体化させようとしたことである。呉克烈が軍内の政治機関を縮小したのみならず、中隊政治指導員をなくさなければならないと主張していた事実を捏造した。

 第2に、北朝鮮軍の作戦指揮権をソ連軍に渡すことによって、北朝鮮全体をソ連に売り渡そうとしたことである。軍の現代化を口実にソ連軍の作戦基地を北朝鮮に入れようとし、ソ連軍の軍事人員を駐屯させようとしたことである。

 結果、この争いにおいて呉振宇、李奉遠派が勝ち、呉克烈勢力が粛清されることになった。呉振宇、李奉遠派は、呉克烈がこのような措置を金正日と合意して行ったことを知っていたため、この事実を金正日のみならず、金日成に直接報告した。金日成の批判の指示が下るや、金正日は、為す術がなく、呉克烈勢力を軍から除去しなければならなくなった。しかし、心の中では、金日成を唆した呉振宇と李奉遠に対する良くない感情を持っていた。何故かというと、当時、呉克烈と共に、偵察局長チャン・ソンウ中将、作戦局長金英春中将、参謀政治部長チョン・ヨンス中将、副総参謀長 李ドンチュン中将、アン・ユンチャン中将等、数十名の将星と高級将校が降級されるか、軍服を脱がされ、撤職除隊した。

 1990年代には、国内の勢力争いを終息させるための対策が現れた。金正日が1991年12月、人民軍最高司令官となり、軍に対する本格的な整備事業に着手した。金正日は、軍内に固執的に存在してきた派閥争いと軍事指揮官と政治一群間の意見衝突と摩擦を解消するため、各種措置を取り始めた。1969年以後、金日成が軍隊内の政治機関、政治一群に信任を与えるや、彼らは、党制度を使い、軍事指揮官達を見下し、軍事指揮官の固有の任務である軍事作戦指揮にまで干渉し始めた。

 このように、軍事指揮官の地位が弱体化し、軍風(軍綱紀)が弱体化し始めた。金正日は、1993年、人民武力部機構体系改編を断行し、総政治局から幹部部を分離させ、人民軍幹部局を作り、作戦局と偵察局の処長を大佐編制から少将編制に高める等、軍事指揮官に力を与え、軍指揮と関連する命令、指示は、人民軍作戦局を通して下達し、報告を受ける体系を立てた。

 また、1988年、呉克烈派として左遷されていた金英春を総参謀長に、チャン・ソンウを3軍団長に、上方調整配置した。現段階において、北朝鮮軍内に強硬派、穏健派があると断定するのは困難だが、強硬性向と穏健性向を持った人物はいると見ることができる。強硬性向を持った人物としては、総政治局長趙明録次帥、総参謀長金英春次帥、作戦局長金河奎大将、総政治局組織副局長玄哲海大将を入れることができ、穏健性向の人物は、第1副部長金鎰[吉吉]次帥、副部長呉龍訪大将、5軍団長金明国大将、総政治局宣伝副局長朴在京大将、3軍団長チャン・ソンウ大将である。金正日は、軍部の強硬、穏健性向を持った人物と軍事指揮官、政治一群間の意見を狭めて、談合を行い、北朝鮮軍が左にも、右にも偏らないようにするため、非常に苦労している。

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最終更新日:2003/03/18

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